超・高齢化社会を考える!

高齢化社会の実情をつづるドキュメンタリーブログ

プロローグ:ドキュメント「壊れゆく父親」認知症実録レポート 1

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プロローグ:ドキュメント「壊れゆく父親」認知症実録レポート 1

毎日繰り返される混乱

「母さん、内科に行く日が11/21で、整形外科に行く日が11/1だよなあ?」
父親S氏が、つぶやくように母親M女史に「また」訊ねた。
S氏は、さっきから新聞社が配布している二か月分のスケジュールが書き込めるようになっている大判のカレンダーを見ている。
母親Mは、先ほどからこの質問を三度も繰り返し尋ねられ、そのつど、
「そうですよ」
と答えている。

記憶がおかしくなって以来、S氏はスケジュール表を記入するが、すでにそれすらも管理できなくなっている。

記憶がおかしくなって以来、S氏はスケジュール表を記入するが、すでにそれすらも管理できなくなっている。事柄の認識ができないため、間違った修正をしてはまた混乱する。

 

三分ほどして、父親S氏が、
「母さん、それじゃ、内科に行く日が11/1だな?11/21って書いてあるから、消して、直しておくいやー」
最近、圧迫骨折の後、ほとんど歩けなくなってしまい、寝たきりに近くなっている母が、声を荒げる。
「なにを言ってるの!さっきから、内科は11/21だって、何度も言ってるでしょ!11/1は外科だって、自分でも何度も言ってて、どうなってるんだて!」
S氏は、きょとんとした顔で、
「俺は今、初めて訊いたんだねっかやー」
と真顔で言う。

認知症と言う名の「崩壊」

今年、S氏は91歳である。母親Mは現在83歳である。
突然、こういうことが発生しているというわけではない。
これは、すでに一昨年から、ほぼ毎日のように繰り返されている光景である。

明らかな記憶や認識の混乱が見られるようになったのは、数年前。それは次第に悪化の一途をたどる。

明らかな記憶や認識の混乱が見られるようになったのは、数年前。それは次第に悪化の一途をたどる。

 

筆者は、現在、この二人と同居している。
いや、同居を余儀なくされている、と言うべきか。
筆者には妻子がおり、国際結婚をしている。
妻の国で暮らそうと思い、それまでやってきた事業を円満に清算、言語の資格も取って、さて、出発しよう、と思っていた矢先、実家でこのような状況が発生した。
発生したというよりも、兆候は何年も前からうすうすあったのだが、それが急激に良くない方に悪化してしまったのだ。

父親S氏は、このところ、明らかに「認知症」の様相を呈している。
私は、実際にこの状況に巻き込まれて初めて、俗に言われるところの「認知症」というものの実状を知った。
一般的な「物忘れ」とは明らかに違うのである。
「物忘れ=記憶の衰え」というのであれば、人間は30代後半から誰でも起こりえる。
人の名前がそこまで出て来かかっているのに、出てこない。
単語が出てこない。
約束事を忘れてしまった。
こういうことは、誰にでもよくある話だ。
認知症」とは区別しなければならない。
認知症」というのは、よく名付けたと思うのだが、その字のごとく、「認知能力の障害」である。
「認識能力の障害」と言ってもいい。
「ものごとの認識ができなくなる」のである。
そして、それが「物忘れ」ではない、「記憶のフラッシュメモリーの故障」と連動し、大きな混乱を引き起こす。
これは次第に、頭本体のメモリーが動作しなくなる状況と連動していく。
次第に過去の記憶も含め、脳が保持していた情報の崩壊と混乱となって、非常に深刻な事態へとつながっていく。

意味をなさないスケジュール表

冒頭のエピソードで、S氏は、ちゃんとすでにスケジュールが書かれているカレンダーを見ながら、同じことを何度となく訊き返している点にご注目いただきたい。
スケジュールは、書き込んであるのだが、書いてあることが「認識できない」状況に陥ってしまっている。
そして、母Mに確認するのだが、確認したこと自体の記憶が、頭のフラッシュメモリーの故障で残らない。
何度も、同じことを訊き返す。
そのうち、母が言ってもいないのに、内科に行くのが11/1である、と急に外科と内科の区別が認識できなくなり、勝手に訂正しようとして、そこで母Mは、声を荒げてその行動を止めようとする・・・。

記憶のフラッシュメモリーが故障、認識機能も故障、それは周りにいる家族にとっても非常に深刻な影響を及ぼす。

記憶のフラッシュメモリーが故障、認識機能も故障、それは周りにいる家族にとっても非常に深刻な影響を及ぼす。

 

この件に関しては、母が止めたから、まだでたらめのスケジュールに書き改めるのは未然に防いだ。
・・・しかし、自分で勝手になにがどうなっているんだか、「思い込み」でスケジュールを書き換えてしまうことはすでに日常的で頻繁に発生してしまっている。
町内会の会合日を、電話を受けて正しくスケジュールに書いていたはずが、なにがどうなったのか、勝手に日を書き換え、当日、町内会から「来られるのを待ってるんだが、どうしなさった?」と電話がかかってくる、ということもよくある。
これは、おそらくであるが、異なる約束が混同されて、別な件で話があったことを町内会の会合と混同して認識しているのである。
あるいは、町内会会合という言葉の認識ができなくなってしまってのことと思われる。

つまり、S氏に関して言えば、新聞社が配布する大きなスケジュール表にあれこれ書き込んでいるが、すでにその内容は正しいのか違っているのか、判然とせず、こんなもの使っていても混乱が大きくなるばかりなのだ・・・。

「認識」できなくなるということ

彼らは、台所に隣接する8畳の和室を占拠して生活している。
筆者がコーヒーをいれに台所へ行くと、台所に設置してある洗面所の水が出しっぱなしになり、ちょろちょろと水が流れていて、止めることがよくある。
これは彼ら二人ともなのであるが、すぐそばの部屋で寝起きして生活しているのに、この水道の流れる音が、「聴こえない」という。

出しっぱなしのままの洗面所の水の音が「わからない」。聴こえていないわけではないが、「認識ができない」。

出しっぱなしのままの洗面所の水の音が「わからない」。聴こえていないわけではないが、「認識ができない」。

 

「難聴」と似ていると思われるかもしれないが、これまた難聴ではないのである。
特に父親S氏は、こうしたことは、多岐にわたっている。
耳が聞こえていないのではない。
水が流れる音、たとえば雨が屋根を打つ音等が、聴こえていても「認識できない」のである。
昨年、水洗トイレタンクのストッパーが経年劣化で腐食し、トイレの水が流れっぱなしになっていた。
筆者が、そうなっているから、業者を呼んで処置が必要だ、というと、
「そんなことにはなっていない!トイレの水なんか流れっぱなしになどなっていないでや!」
と激高して切れる。
筆者がS氏をトイレに連れていき、
「ほら、ちょろちょろとずっと流れてるだろ?ほっとけば水道代もバカにならない。早く処置した方がいい」
というと、
「俺には、なにも聴こえないでや?」
と、さも不思議そうな顔でトイレを見つめている。

「認識できなくなる」ということの実例は、他にもあげていけばキリがない。
近くに、人がいるかどうか、それも認識ができなくなる。
筆者が、近くでタバコを吸っているとして、「近くに人がいる」として認識ができない。
暑さ寒さの感覚もおかしくなっている。
寒いのだか、暑いのだかがわからないので、寒い部屋で延々と作業をしていて、血圧が上がった、と大騒ぎを始める。

「明らかな狂気である」が、しかし・・・

本人は認知症を完全否定。認知症検査は、本人が同意しなければ医師は診ない。

本人は認知症を完全否定。認知症検査は、本人が同意しなければ医師は診ない。

「認識できない」ということは、「判断ができない」ということにもつながる。
毎日のように繰り返される、パニック。
すべてが、狂ってきている。
筆者が、この状況に関わるということは、いわば「狂人」と関わるに等しい・・・。
では、こうした筆者の父親S氏は、認知症として扱ってもらえるのか?
もらえないのである。
認知症と判断されるためには、医師の診断が必要となる。
また、介護認定を受けるためにも、医師の認定が必要となるのだが、・・・本人の意思により、検査を受けるのでなければ、認知症としては扱ってもらえず、ましてや頭は狂ってきていても、歩いたりできて、調査員の前で「いい子」で「自分は健常で、どこも異常はありません」と本人が「事実と違ったこと」を述べることができるのであれば、これを認知症とは認定はしてもらえない。
これが、少なくとも筆者たちが住まう新潟県の田舎町における実状である。
なぜなのか・・・?

ブログ公開の決意

筆者は、自分が今まさに直面しているこうした問題を、今回、ブログで公開することに決めた。
高齢化社会」という言葉が使われるようになってずいぶん久しい。
だが、なかなかそれにピンとこない人も多かろう。
筆者自身もそうだった。
これは、多少はテレビなどでも報じられていても、なかなか実際がどのようなものであるのかということまでは、想像力を働かせることが難しい。
実際の認知症などに接する機会がない人には、そもそもわかりづらいのは当然である。
二年前から、実際にこうした実家の状況に直面して以来、筆者に関して言えば、「高齢化社会」という問題が、いったいどういう深刻さを持った問題なのか、それまでの認識とはまるで異なる「過酷な現実」の中に放り込まれたような様相を呈している。
そこには、単なる福祉の問題だけではすまないことも多い。
社会の構造、政治、経済、倫理観の問題、医療制度の問題、ひいては死生観にも大きく関わる。
重大な問題を含んでいるにもかかわらず、その実態は実際に高齢化社会の実例と関わり合わないとなかなか見えてこない。
だが、高齢化社会はすでに「人生100年」とかいう意味不明の浅はかさをはらんだ掛け声の下で急速に進行してきており、団塊世代の多くが筆者の実家とおなじような問題に直面しようとする現在、「超・高齢化社会」となってきつつある。
極めて深刻な問題となりつつあることは間違いない。

筆者の場合、まだまだこの問題は現在進行形で、時間に比例して確実により深刻な色合いを増してきている。
このブログで、実際に起こってきている状況を踏まえ、レポートすると同時に、現代日本が抱える最も深刻な問題の一つである「超・高齢化社会」を、様々な角度から考えていきたいと考えている。

読んでいただける方がいれば幸いである。
この問題は、各家庭の個別事象ではない。
現在、親の介護等の問題を抱えていない方でも、やがては自分自身が老いる中で直面する可能性だってある。
考える人を増やし、社会全体で考えていかないとならない重大な問題であるはずだ。
数回にわたり、赤裸々な実家の状況レポートをお伝えすることで、まずはこの問題のリアリティが伝わるようにしたいと思う。