超・高齢化社会を考える!

高齢化社会の実情をつづるドキュメンタリーブログ

第三回:ドキュメント「死にたい」症候群、抗うつ剤漬けの母親! 1

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第三回:ドキュメント「死にたい」症候群、抗うつ剤漬けの母親! 1

二方面作戦?

前回まででお伝えしたように、父親S氏の認知症の進行が、狂気的な行動になりつつある問題は、非常に深刻な様相を呈してきているのだが、実家にはもう一人、物理的にも精神的にも問題を抱えた人物がいる。
母親Mである。
筆者の場合、この両名に対する「二方面作戦」という非常に難しい対処をしなければならぬ困難が発生している。
これは、医療の問題も深刻にからんだことで、実家の問題に限ったことではないと思われる。
すべて実話である。
以下、レポートとしてお伝えする。

最初はまだそれほどではなかった

筆者の母親M女史。
現在83歳であるが、78歳ころから体の各所に不調を生じるようになった。
78歳のとき、植木の水やりをしている最中、背骨の圧迫骨折を起こし、コルセット着用しなければ身動きできない状況に陥った。

圧迫骨折が、最初のきっかけだった。そこから骨盤内臓脱が起こり、母親Mは衰えていった。

圧迫骨折が、最初のきっかけだった。そこから骨盤内臓脱が起こり、母親Mは衰えていった。

圧迫骨折の方は、この時は二カ月ほどでなんとか治癒に向かった。
だがコルセットによる内臓圧迫の影響か、ほぼ同時に「骨盤内臓脱」を発症、子宮や膀胱が産道からはみ出る症状は、歩行が困難になるだけでなく、尿意をコントロールできなくなり、下腹部の不快感を訴えて失禁等を繰り返すようになった。
産婦人科の軽度の処置ではどうにもならず、子宮摘出手術を行う。
それが79歳のときのことだ。
なんとか少し持ち直し、圧迫骨折と合わせリハビリを、と医師も本人も言っていた矢先、新型コロナウイルス感染症拡大で、それまで毎週通っていた卓球教室、絵画教室、シルバーコーラス等、すべて閉鎖、あるいは解散となった。
子宮等摘出で女性ホルモンのバランスが大幅に崩れたことと合わせ、外に出る機会がめっきり減ったことから、筋力等が急激に衰え始める。
それでもまだ、自分で車を運転しスーパーまで買い物に出かけていたので、この時点ではまだ日常生活には大きな支障はなかった。
だが、致命的なことは、ある日、何の前触れもなくやってくる・・・。

X(エックス)デーから急速な衰えが始まる

ちょうど今から二年前、玄関先の植木を家の中に入れようとした際、二度目の圧迫骨折を起こした。
当初は痛みは訴えてはいたが、前回使用したコルセットを使ったりしながら、それでも普段通り動いていた。
前回はコルセットを使用しただけで自宅でなんとか回復していたから、今度もそうだろう、という楽観が本人にはあった。
前回ほどまだ痛くない、ロキソニン湿布を貼れば痛みもわかんない、とのことで、もともと横着なこの人はコルセットもつけたりつけなかったりで好きなように動き回っていた。
一週間ほどして、ベッドから起きようとした際、致命的な痛みが起こった。
もはやロキソニンもまったく効かず、起き上がることすら激痛でできない。
父親S氏が、あわてて、かつて筆者の祖父が使用していたポータブルトイレを倉庫から出してきて母Mのベッドのわきに設置したが、そこまで体を移動することさえ激痛でできなかった。
状況を見ていた筆者が、もはやこれは致し方なく119番に電話、救急車で地域の基幹病院に運ばれ、そのまま入院することとなった。
ひと月ほどの入院でなんとか起き上がれてトイレ程度はいけるようになったため、退院はした。
筆者が包括支援センターに連絡し、入院中に要介護認定もしてもらったが、以来、実家にて生活はしている。

二度目の圧迫骨折は致命的で、歩行はかなり困難に。屋内でも杖を使わねば歩くことができない。

二度目の圧迫骨折は致命的で、歩行はかなり困難に。屋内でも杖を使わねば歩くことができない。

当初は食事等の準備は筆者がしたが、なにもしないと本当に寝たきりになるのは目に見えていたので、冷凍総菜の宅配等も手配したうえで、現在は母親Mは父親Sと自分の食事についてはなんとか準備はしている。
トイレも、この実家は古民家でバリアフリーではないのだが、筆者が段差には手摺等を設置し、なんとか自分で行かせている。
非情のようだが、そうさせているからこそ、退院当初は歩くのもままならなかったのが少し回復はしてきている。
しかし、昨年暮れから、母親Mは、「胸が苦しいような気がする」という症状を訴え、病院への駆け込みを繰り返すようになった。

ほぼ「寝たきり」に

「胸が締め付けられるような気がする」「難儀くなってしまって起きていられない」と本人は訴える。
圧迫骨折による入院から戻って以降、体力等の急速な衰えで横になっていることが多くなっていたのだが、ここへきて母親Mは、食事の準備(といっても冷凍総菜があるので味噌汁と炊飯程度)、風呂、トイレ以外は、ほぼ寝たきりの様相を呈してきた。
それで、「心臓がおかしくなっているんだ。きっとそうだ」と慌てふためき、病院へ駆け込む。
父親Sが近所のクリニックまで送っていくのだが、父親Sも血圧が高い、脳梗塞だ、とかパニックを起こして送迎しないときもあり、その場合は仕事を休むか中断して筆者が送るしかない。
だが、病院へ行き、心電図や血圧などを測定したとしても、どこにもなにも異常は見受けられない。

昨年から、「苦しい」「難儀い」を繰り返し、病院に駆け込む日々。薬は時系列でどんどん増えた。が、なにも改善はされなかった。

昨年から、「苦しい」「難儀い」を繰り返し、病院に駆け込む日々。薬は時系列でどんどん増えた。が、なにも改善はされなかった。

しかし、「死ぬかもしれない」とパニックを起こしては、多い時には週に四回も病院へ駆け込むようになった。
これではほぼ毎日だ。

「どこが、どう苦しいのだ?」

と尋ねても、

「わからない。だが、胸が苦しい」

としか返ってこない。

これでは、医師も何がどうなっているのだか、わからないだろう。
苦しくてたまらない、なんかいい薬をよこせ、と医師に言うものだから、あれこれ薬はどんどん増えていった。
当初は、骨折に対する骨の強化の薬と利尿剤、および軽めの降圧剤だけだったのが、あれこれ違った種類の降圧剤、利尿剤から、苦しいときだけ飲むニトロまで、医師はどんどん薬を増やしたが、まったく改善は見られない。
しまいには、「心因性によるもの」と言われ、抗うつ剤エチゾラム錠(デパス)を処方された。
これは多少は効くようで、「少しは楽になる」と言っていたが、しかし本人言うところの「発作」は、抗うつ剤でも治まることもなく、あまりに本人が病院に頻繁に行くので、医師は検査して「心臓の冠動脈が細くなっている”ようだ”」(”ようだ”とは、どういう意味だろう?あてずっぽか?)と強引に原因推定を行い、この五月には冠動脈ステントを挿入することとなり、それで一週間ほど母親Mは入院した。
さて、ステントは成功し、冠動脈の状態も良くなった。
これでよくなるかと思いきや、・・・まったく「発作」は改善されなかった。

これは薬の副作用ではないのか?

筆者が、医師の処方している薬を調べると、いろいろと副作用が強い薬、それも「異常や不快感を覚えたり、改善が見られない場合は医師と相談してください」と書いてあるようなものばかり。

しかも副作用に書いてある症状が極めて母親の「発作」と似ている。
そういうものを、この半年の間に医者はどんどん増やしていっている。
最初、圧迫骨折の薬と合わせて軽度の降圧剤だけ一種類飲んでいたものが、四種類になり、しまいにはエチゾラムまで混ざり、七種類になった。
薬を増やすごとに、母親Mの「発作」は悪くなる一方なのである。
考えてみると、圧迫骨折で入院となる以前、母親Mは薬と言うのはのどが痛いときに風邪薬を飲む程度で、まったくこのようには飲んでいなかった。
冠動脈が細くなっているから、とステントを入れても改善がされないわけだし、その他、心電図とかCTも毎週のように調べるが、どこにも異常はない。
機器を一日つけっぱなしにして心臓の動きを観察する検査もしたが、異常は見られない。
・・・これは、もしかしたら、単純に薬の副作用なのではないか?との疑いが起こった。

出されている薬の大半が、副作用として母親Mが訴えるような症状と関連する可能性があるものばかりだった。副作用による不快感ではないのか?との疑いが沸き起こる。

出されている薬の大半が、副作用として母親Mが訴えるような症状と関連する可能性があるものばかりだった。副作用による不快感ではないのか?との疑いが沸き起こる。

そこで、医師にそのことを伝えさせ、電話で看護師にも言った。
医師もいい加減なもので、そのように言われれば、
「そうかね?では、ちょっと薬を変えてみましょうかね?」
と、ころっと薬を変え、また出していた薬の数自体を減らした。
もし、医師として病状を確信したうえで処方しているのであれば、説明を聞きたいと思っていた筆者には、拍子抜けするくらいだった。
どう見てもこの現状とは無関係で副作用が強そうなものは指摘してやめさせ、必要なものでも副作用が強いものは別なものに変更させたところ、大幅に「発作」と母Mがいうところの症状は緩和し、ほぼ出なくなった・・・。
あきれかえる話だ。
医師よりもWebで調べて医師でもない筆者が言っていることの方が、よほど改善が早いのではないか?
いったい、どうなっているのだ?

高齢者医療に感じる疑惑

高齢化社会とは、医者や医療機関と密接なかかわりを持っている。
非常に大量の高齢者が、不調を訴えて毎日のように病院を訪れる。
ビジネスとしてこれを見れば高齢化社会においては医師は大繁盛である。
しかし、母親Mの件に関して言えば、筆者は医師というものの常識や良識を疑わざるをえなくなってくる。
母親Mが毎回大騒ぎして駆け込んだこともあるが、そのたびごとに薬が増えた。
薬を増やすごとに状態は良くなるどころかますます悪化したのだが、医師はこれが薬の副作用によるものとは考えないのだろうか?
なにもそうした可能性を顧みず、出している薬を変更もせず、「そうですか。では別の薬も出しましょう」と新たな症状が出るごとに対処療法として薬の種類をどんどん増やしていくのは、一種の医療点数稼ぎをどうしても疑ってしまう。
こんなことをしていけば、症状が改善する以前に、薬漬けではないか。

「薬漬け」は、高齢者医療ではよく見受けられる。医師は医療点数稼ぎでやっているのではないのか?との疑いをもたれている方は、少なくはない。

「薬漬け」は、高齢者医療ではよく見受けられる。医師は医療点数稼ぎでやっているのではないのか?との疑いをもたれている方は、少なくはない。

さらには、「心臓の冠動脈が細くなっている”ようだ”」とかいう、非常にあいまいな言い回しでステントを入れているのであるが、そもそも薬の副作用が原因なのではないか?と疑うこともせず、ステントを入れるというやり方は、適切なのだろうか?
それで症状が改善すればまだよいが、・・・なにも改善しないとは、いったいこの医師たちはどうなっているのだ?

高齢者医療の「闇」?

たとえて言うなら、風呂のボイラーの温水の出が悪くなっているから、直してくれ、と業者に言ったら、ボイラーそのものの交換が必要です、と業者が言って交換することになった、と。

だが、温水の出は改善されない、というようなことがあれば、どうなのだ?
それは原因がボイラーそのものでないのに、新しいものを売りつけるためにそういうことをする「悪徳業者」ということになるであろう。
医師には悪いが、母親Mのステント処置なども、これと本質は何ら変わらないように思えてくる。
これがボイラーならば、腹は立つがまだいい。
元通りにさせたうえで、別な業者に原因を究明させることもできる。
・・・だが、ステントは、そうはいかない。
人の体を、なんだと思っているのだろう?
原因が薬の副作用であるかもしれないことを疑わず、薬を変更するなりもせずにこうした処置を行っているとしたら、それは医師としての資質や能力に欠ける「ヤブ医者」であろう。
だが、ヤブ医者というだけならば、まだかわいいものだ。
・・・もし、この医師たちが、薬の副作用が出ていることも、ステントを入れても大した改善がないことも、すべてをわかったうえでやっているとすれば、どうなのだ?
・・・それはきつい言い方をすれば、高齢化社会に巣くっている悪質な「詐欺ビジネス」と変わらないのではないのか?

医師に言えば、むろん否定するであろう。

だが、実際がどうだかなんて、こうした経緯を見ていると、限りなくグレーな気がしてならない。

私たちは、医師の善意を信じるほかはない。しかし、グレーなケースも少なくないのではないだろうか?実際に母親Mのようなケースを目にすると、医師には悪いが、疑いの目を向けざるを得なくなる。

私たちは、医師の善意を信じるほかはない。しかし、グレーなケースも少なくないのではないだろうか?実際に母親Mのようなケースを目にすると、医師には悪いが、疑いの目を向けざるを得なくなる。

お年寄りは薬手帳を持たされたって、まともに見ない人も多い。
「なにやったって、俺たちの診察の言いなりで、どうせ意味なんてわかんねえんだから、薬は出せるだけ出して儲けてしまおう。それで不調を訴えるならば、ステント入れればさらにがっぽり点数稼ぎもできるしな、ひっひっひ」
というような薄笑いが聴こえてきそうで気持ちが悪いのである。
いずれにせよ、医師がすべてこうではないと信じてはいるが、こんなことが身近で起こって経緯を間近に見てしまうと、医師というものをどうしても疑ってしまわざるを得ない。
高齢化社会というのをビジネスとしてとらえれば、こうした悪徳業者のボイラー交換まがいのことが、けっこうそこらじゅうで行われていても、なんら不思議ではないのである。

抗うつ剤への依存と、「死にたい」症候群

だが、こうした一連の処置は、もう一つ、母親Mに深刻な結果をもたらしてしまった。
それは、抗うつ剤エチゾラムデパス)への依存症である。
この抗うつ剤が効いている間は、ご機嫌で鼻歌を歌ったりしているが、切れてくると・・・ことあるごとに「死にたい」「死んでやる!」を口にするようになったのである。

「死にたい」「死んでやる!」とことあるごとに口にする母親M。こうした錯乱は、抗うつ剤がなくなった時期が極めて多い。

「死にたい」「死んでやる!」とことあるごとに口にする母親M。こうした錯乱は、抗うつ剤がなくなった時期が極めて多い。

・・・死にたくないから、医者に駆け込み、頻繁に騒動を起こしているのではなかったのか?
筆者はあんたが「死ぬかもしれない、早く!」というから、仕事を中断して病院まで送ったりしているのだぞ?
なんだか、まるっきり矛盾している。

頭がおかしいとしか思えない。
死にたくないのか?死にたいのか?いったい、どうしたいのか?この人は?
「死にそうだから、病院へ連れていけ!」と言ったかと思えば、今度は「死にたい」だの「明日死んでやる!」だの言われて、こちらも頭がおかしくなりそうになる。
これは、博愛主義者の方が聞いたら、
「それは、あなたがやさしくしてあげねばなりません。高齢者は不安になるものなのですから、ご家族の方の暖かい心遣いが必要なのです」
とか、大層なごたくを並べそうである。
が、筆者に言わせれば、そんな理想論では決して済まされない。
確かに、子供が泣きわめいたりして要求を通そうとするのと一緒で、やさしく、要求通りにせよ、ということの裏返しだということは理解できなくもない。
だが、筆者はすでに片側では認知症で奇行を繰り返し狂気を発している父親S氏に対処もしなければならない。
そしてもう一方で、これまた少なからず狂気をはらんだ母親Mの「死にたい」攻撃にさらされている。
博愛主義も大いに結構だが、現実的にはそんなことを言っていたら、エライことになってくる。
すでになっている。

絵にかいたような博愛主義では対処はできない!

親戚が、電話してきて上記博愛主義者のようなことを言い、筆者の配慮が足らないようなことを抜かしたから、ブチ切れたこともある。
その叔母は、博愛主義の偉そうなことを説教がましくたらたら言い、あげくのはてに今度は自分が筆者の両親に世話になってきたから、「そのうち」自分が世話を手伝うつもりだ、とか抜かした。
「あんたな、俺が現在やってること、よく知りもしねえくせに、偉そうなこと言うのも、できもしないのに手伝うだの、キレイごとぬかすのもやめろ!二度と俺に対してそういうエラそうな説教抜かすな!」
博愛主義は結構なことだが、ここではそんなことを言ってれば、対処どころではなくなるのだ。

ガスコンロはつけっぱなし、ファンヒーターがついているのを気づかず、ヒーターの前10センチの間隔しかない状態でガラス戸を閉める、水道は出しっぱなしでも音がわからない、怒鳴ってやめさせなければ、こちらまで命が危うい。

外部者は、勝手な博愛主義を押し付けがちだ。だが、実際の状況は、博愛主義をやっていればとんでもないことになる。言葉ではキレイなことはいくらでも言えるが、行動を伴わずにいい人づらすれば、それは偽善である。

外部者は、勝手な博愛主義を押し付けがちだ。だが、実際の状況は、博愛主義をやっていればとんでもないことになる。言葉ではキレイなことはいくらでも言えるが、行動を伴わずにいい人づらすれば、それは偽善である。

そんなキレイごとを言ってる場合ではないのである。
このバカな叔母は、最初は偉そうにごたく抜かして説教めいたことを言い、さらには両親に世話になってきたから、「そのうち」私が世話を手伝うつもりだ、とか抜かすから、「いやあ、遠慮しないでくださいよ、なんなら、明日来てくれるんでも構いませんよ?」と言えば、「犬が死にそうだから、今はいけないわ」。
ふざけるな!だったら言うな!この偽善者が!
あまりにぶち切れたので、論理的にぼろくそ言ってやった。

あまりに腹が立ったものだから、筆者まで血圧が上がり、軽い眼底出血を起こし、自分まで降圧剤をしばらく飲んでいたような始末だ。
叔母は筆者が心底ぶち切れていることに狼狽し、正論すぎてなにも言い返せなくなり、しまいには泣き出した。
だったら、もう二度と下らん電話かけて寄越すな!
頭が狂った父親Sに、これまた寝たきりで「死にたい死にたい」といいつつ苦しければ病院に連れていけ、と発狂する頭のおかしい母親M。
いちいちこういうバカ博愛主義者の連中の言うとおりにしてたら、火事が起こるか事故を起こすか、とんでもないことになる。

そうでなくてもトラブル続きで筆者の方がなにもできずにいる。

そのうえ、バカな博愛主義者の叔母の説教なんぞいちいち聞いてたら、真面目な話、こっちのほうが脳溢血起こすか、気が狂うわ!
おーよちよち、だの言ってられない。
彼らは二人とももはや正常ではない。
狂気の行動に出ようとしているならば、怒鳴りつけてやめさせねばならない。
それが、筆者の立場なのだ。

それにしても、母親Mの、この「死にたい」というような錯乱は、一種の中毒、依存症になってしまった抗うつ剤の副作用による面も大きい。
次回、このことを踏まえ、もう少し具体的にお伝えしよう。