超・高齢化社会を考える!

高齢化社会の実情をつづるドキュメンタリーブログ

第四回:ドキュメント「死にたい」症候群、抗うつ剤漬けの母親! 2

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第四回:ドキュメント「死にたい」症候群、抗うつ剤漬けの母親! 2

「死にたい症候群」=ゾンビ現象

母親Mというのは、もともとやや鬱病っぽい人間ではある。
自分の人生をつねに悲観しており、それが時にヒステリー発作となって、特に息子である筆者に言葉の刃となって向けられてきた。
幼少期から、これはずっとそうだった。
詳しくはここでは書かないが、これは彼女自身の前半生とも大きく関係しているものと思われる。
もともとかなりの難がある人物で、このヒステリーが始まると、モノを投げつけたりもした。
それが、だんだんパワーがなくなり、加えてヒステリーを起こしても筆者が相手にしなくなった。
数年前からの衰弱で、ヒステリーという形でモノを投げつけたりということはなくなった。
それが、精神安定剤エチゾラムデパス)を飲むようになってからは、飲んでいるうちはある程度ご機嫌なのだが、効果が切れてくると不安や悲観が極度に増幅されるらしく、ことあるごとに「死にたい」などとと言い出すようになった。
ことに、自分の要求が通らないと、
「どうせ、あたしなんか、明日の朝、死にますて!」
「生きていても、楽しいことが一つもない」
「ここの家に、思い入れがあることなんて一つもない」
「生きてるのも、なにもかも、すべて面倒くさい」
などと、ゾンビのようなことを筆者に言ってくる。

エチゾラムが切れてくると、母親Mから浴びせられるネガティブきわまりない言葉の数々。同居者かつ介護者にとっては、非常に悪影響が大きい。

エチゾラムが切れてくると、母親Mから浴びせられるネガティブきわまりない言葉の数々。同居者かつ介護者にとっては、非常に悪影響が大きい。

両親には、筆者と対照的に、手取り足取りで「彼ら」が育てた娘もいる。
だが、この娘には、こういうことを言ったことはない。
ヒステリーも、娘に対しては向けた記憶がない。
なぜか、筆者にだけ常に向けられてきたが、ゾンビのような言いぐさも、筆者にだけ言うのだ。

本当に死にたいわけ?

筆者は、最近では基本的に相手にしないことにしている。
本当に死にいたるような人は、こういうことは言わない。
「死にたい」とか、「明日死んでやる!」などと言うのは、一種の自分の要求を通そうとするための脅迫で、質の悪い「甘え」に他ならない。
実際、不安定になってくると毎日のようにこういうことを言うが、いまだにこの人は死なないでいる。

「死にたい」「死んでやる」といった言動は、ある種の甘えでもある。が、これを振り回すのはれっきとした狂気だ。

「死にたい」「死んでやる」といった言動は、ある種の甘えでもある。が、これを振り回すのはれっきとした狂気だ。

なので、忙しいときにこういうことを言い出したら、筆者は、
「黙れ!だ・ま・れ!」と言うことにしている。
楽しいことがないだの、すべて面倒くさいだの、ふざけるな!
こちらだって、お前たちのことでいろいろと処理するのは、面倒くさいわ!
だいたい、楽しみだの、生きる意味だの、そういうことは、筆者が与えるわけにも、他人が与えるわけにもいかない。
彼女自身の人生観の問題だ。
筆者に言って、どうせよというのだ?
甘えも、たいがいにしてほしいものだ。
二週間ほど前、エチゾラムがなくなった時期、鬱っぽくなる状況が悪化し、恒例のゾンビ現象が筆者に向けられ、上記のようなことをかなりしつこく、グダグダ言い出したので、さすがにはっきりと言った。
「あのね、私は人間の自由意思というものを尊重する人間です。あなたが、自由意思で死ぬ、というならば、自由意思の尊厳性を大切に思う私は止めません。お死になさい。葬儀はちゃんと葬儀場用意して行ってあげます。でも、できないならば、言うのはおやめなさい。人間は、いろいろと辛い気持ちはだれでもありますし、あなただけが特別と言うわけじゃありません。あなたがそう言うことで、私を脅迫して自分の要求通りにさせようとしても、私はそういう甘えは嫌いなので、ムダです。いいですか?死ぬなら勝手にお死になさい。でも死ねないならば、二度とそういうことを安易に言わないでください。吐き気がします」
とぴしゃりとやった。
最近は少しはおとなしい。
当然、死ぬ気配もまったくない。

エチゾラムデパス)とはどんな薬なのだ?

それにしても、「エチゾラム」とは、どんな薬であるのか?と思い、ネットで見ると、このような記事が出てきた。

www.kegg.jp

副作用はほとんどない、安全性が高い薬だ、という医師も多いそうだが、「副作用」項目のところにこうある。

連用により薬物依存を生じることがあるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し慎重に投与すること。また、連用中における投与量の急激な減少ないし投与の中止により、痙攣発作、せん妄、振戦、不眠、不安、幻覚、妄想等の離脱症状があらわれることがあるので、投与を中止する場合には、徐々に減量するなど慎重に行うこと。

母親Mが、近所のクリニックに、エチゾラムがなくなるから、出してほしい、と電話でごねているのを目にして、唖然とした。
「・・・もう、エチゾラムがなくなるんですて。これから行くので、出してもらえませんか?期間の問題がある?出せない?・・・でも、あれがないと苦しくなる。・・・そんなら、苦しくなって、あたしが死んでもいいというのか!(目つきが変わり、豹変)・・・頼みますから、出してください!」
・・・なんだこれは?
まるで、映画に出てくる麻薬依存症患者ではないか・・・?

エチゾラムの離脱症状は、現在、大きな問題となっているのは、依存性が極めて強いからである。

エチゾラムの依存症は、現在、大きな問題となっている。離脱症状は極めて深刻である。

エチゾラム錠は、一粒0.5グラム、高齢者は一日3粒1.5グラムまでにするように、と注意書きがある。
母親Mに、「あなたは、最近、エチゾラムを何粒飲んでいるのだ?」と筆者が訊ねると、
「これを飲むと調子がいいが、ないと胸が苦しくなるから、って言ったら、医者は、それなら、安全性は高い薬だから、どんどん飲んでいいって言った」
とかで、なんと一日6粒から7粒ほど飲んでいる、というのだ!
オーバードーズ(過剰摂取)になりつつある。
医師は、一日4粒までの計算で出しているようだが、・・・これでは、すぐになくなるわけだ。
そして、なくなった場合・・・一種の禁断症状として「死にたい症候群」が起きるという、まことにわかりやすい構図だ。

禁断症状=離脱症状

実は、父親Sもまた、エチゾラム錠を常用している。
これは、降圧剤の頓服薬として出されたのだが、緊張を和らげ血圧への恐怖を落ち着かせるためか、これを飲むと血圧は下がるのである。
エチゾラムは基本的にはれっきとした向精神薬、つまり精神安定剤であり心療内科等で、若い人で鬱病を患っている場合でも処方される薬である。
だが父親Sのようなケースでも処方されているし、内科でもいろんなケースで処方されてきているため、すそ野が非常に広がっているという。

しかし、「連用により薬物依存を生じることがある」というのは本当のことで、実は問題にもなっている。

エチゾラムに慣れてしまうと、それがなくては通常生活を送れなくなる場合が多いという。

エチゾラムに慣れてしまうと、それがなくては通常生活を送れなくなる場合が多いという。

実は、筆者は以前の仕事上の相棒が、完全にこのエチゾラムの中毒となっていたのを目にしている。
この相棒の場合は、他にも鎮痛剤を複数乱用していて、複合的な薬物への依存状態にあった。
が、エチゾラムデパス)は、ひどいときは一日15粒ほど飲んでいたのを覚えている。
そうなると、どうなるか?
彼が言ったことには、
「これを飲まないと、朝、起きることができない。すべてがイヤになってしまう。電車に乗るのが怖いんだ。人の視線が気になってしまい、目を合わせて会話ができない。切れてくると、いてもたってもおれなくなってしまう」
彼の場合は、同一医師では出せる量に法定制限があるため、整形外科、内科、心療内科からそれぞれ出せるだけの量を出させていた。

エチゾラムは安全性が高い薬」?

エチゾラムは、安全性が高い薬だ、とか上記の筆者の元相棒もさかんに口にしていた。
しかし、その実態を見ていると、とんでもない。
こうした依存症の人は、かなり多いと聞く。
ネットで見ると、東洋経済onlineがこのような記事を特集していたりする。

toyokeizai.net

この記事を見ると、・・・まるで自分の両親のことを言っているかのようだ。
特に、禁断症状については、母親Mはすべて当てはまっている。
それにしても、このエチゾラムという精神安定剤が、こんなにも広く使用され、かつ問題も抱えた薬だとは・・・。
依存症に陥った人は、実際に減薬しようとすると、不安や恐怖心がかきたてられ、さらには「希死念慮」すなわち、母親Mのように「死にたい」といった観念に襲われる、という。
これはまさに母親Mの「死にたい」症候群と一致している。
どうやら、母親Mのこのゾンビ現象は、エチゾラム離脱症状=禁断症状の一種と考えることもできそうだ。

「魔法の薬」と言われていた時代もあるというエチゾラム。しかし現代ではまともな医師ならば使用を控える傾向にあるのは、依存性が強いからだ。

「魔法の薬」と言われていた時代もあるというエチゾラム。しかし現代ではまともな医師ならば使用を控える傾向にあるのは、依存性が強いからだ。

この精神安定剤は、最初は「魔法の薬」のようにもてはやされ、日本では精神科のみならず内科でも整形外科でも心療内科でも幅広く処方されてきたという。
現在は依存症が非常に多い合法薬となってしまっているため、2016年に「麻薬及び向精神薬取締法」の指定を受けた。
これは、どういうことかと言うと、上記の東洋経済onlineの記事中にもあるが、

この指定を受けた薬は厚生労働大臣あるいは都道府県知事から免許を受けた者しか取り扱いできず、厳格な保管や在庫記録の管理などが求められ、医療機関同士や保険薬局同士でも一部を除き譲渡・譲受はできない。ある薬が同法に基づく政令での指定を受けていることについては医療現場でいくつかの意味をもつ。

まず、指定を受けた薬剤は処方日数の上限が定められる。これは効果や副作用などの安全性の確認や患者が正しく使えているかなどを定期的にチェックすることが必要になるからだ。一般に向精神薬の指定を受けたものの多くは処方日数上限が30日となる。これにより患者の乱用へのハードルは高くなる。

今現在はこの薬の「依存性」は問題視され、医師の間でも積極的な処方は控える傾向にあるのだという。

安易に、依存性を伝えずエチゾラムを処方する高齢者医療

だが、母親Mにこれを処方した医師は、依存性のことなど何の説明もなく、母親Mが訴える「胸が苦しい」というような症状を、一種の不安神経症とみなして処方した。
「胸が苦しい」は、他の薬の副作用による面が強く、薬を減らし、また副作用が強いものを別の薬に変更させたら現在は落ち着いてきている。
しかし、エチゾラムについては、母親Mはもはやなくなるとゾンビ現象を起こすし、これが切れることが不安で不安で仕方がない。
記事にもあるのとまったく同じ、医師が「法定処方量があるから、今は出せない」などと言えば、ジャンキーのように、食ってかかる。
こういう依存症に関して、この医師はちゃんとした認識をもって処方しているのだろうか?
・・・とうていそう思えないのだが。
「苦しかったら、一日何粒でも飲んでよい」とさえ言っている。
結果、母親Mは完全な依存症になり、頻繁にオーバードーズ(過剰摂取)に陥り、切れれば離脱症状=禁断症状を起こし、「死にたい症候群」を発症していると考えることができる。

エチゾラムの離脱症状は、深刻であるが、医師は少なくとも筆者の両親には非常に安易に出している。しかし一度依存したらもはややめれば害のほうが大きいのが、この薬の恐るべき点だ。

エチゾラム離脱症状は、深刻であるが、医師は少なくとも筆者の両親には非常に安易に出している。しかし一度依存したらもはややめれば害のほうが大きいのが、この薬の恐るべき点だ。

前回も書いたが、筆者は高齢者医療を行っているこの医師に対し、疑惑をつのらせている。
あまりにも安易だ。
これが日本の高齢者医療の実態だとでもいうのか?
父親Sにも、頓服薬として同じ医師が出している。
父親Sの場合は血圧パニックを起こすのに対して出しているわけだ。
まだ父親Sのほうは、「死にたい症候群」は起こしていない。
だが彼の場合は認知症と合わさった「死ぬのが怖い症候群」を発症しており、エチゾラム処方以来これが悪化しているのを見ていると、これもまた一種の禁断症状の一つなのかもしれない。
「死にたい症候群」ではなく、「死ぬのが怖い症候群」として離脱症状=禁断症状が出ている可能性は十二分に考えられる。
こうした依存症と禁断症状は、本人のみならず介護に関わる筆者にも重大な悪影響を及ぼしている。
こういうことを、この医師はどう考えているのか?
彼は明らかに薬の依存性も知ったうえで出している。
年齢的な問題を考えた場合、依存症になってもどうせもう長くは生きないのだから、麻薬のようなものを与えて麻痺させてしまえば本人も楽になるし、医師も面倒がなくなるし、という魂胆なのか?

医師にも、患者にも問題はあるが、根本的には・・・

この医師には、明らかに問題はある。
しかし、こうした医師の問題も、両親の問題も、実は根は全く別のところにあるような気もする。
両親のこうした状況を観るに、この人たちは死に対する恐怖心がやはりとても強い。
死を受け入れられない。
だから、「血圧が高い、脳梗塞が起こる!」とか「胸が苦しい」とパニックを起こし、毎日のように不安に駆られ、この医師のところに駆け込んでいたわけだ。
生物である以上、人は誰でもいつかは死ぬ。
これはシンプルな事実だ。
そして人間が死を怖れるというのは、おかしいことではない、とは思う。
が、しかし、この人たちの場合は・・・どうも死を根本的に否定している気がする。
自分は死ぬのではないか?という不安でパニックを起こし、血圧計を延々と測り続けたり、毎日のように胸が苦しいと病院に駆け込み、二人とも「いい薬をよこせ」と要求する。
死を否定しているから、死に対して不安が増幅されているようにも見受けられる。
それは裏返せば、納得して「死」を受け入れるだけの「生」がない、とでも言おうか・・・?

死生観というものが明確でない人が圧倒的多数と思われる超・高齢化社会。生に意味を持てず、かといって死は否定するという矛盾。

死生観というものが明確でない人が圧倒的多数と思われる超・高齢化社会。生に意味を持てず、かといって死は否定するという矛盾。

母親Mのゾンビ現象は、
「生きていても、楽しいことが一つもない」
「ここの家に、思い入れがあることなんて一つもない」
「生きてるのも、なにもかも、すべて面倒くさい」
といった言葉を伴う。
ここに、この問題の大きな核心の一つがある。
生きるということの意味が、この人の場合は希薄なのだ。
それは、今に始まったことでもないだろう。
自分が、生についてどのように考え、なにに対して尊厳を置いているか?というような問題なのだと思う。
それが、この人たちには昔からまったくない。
常に、マニュアル通り、世間体通りで形式的にすべてを履行しとけばそれでいい、という考えで生きてきたのだ。
だが、死生観とか、どこに尊厳性を置くか、といった話は、人から与えてもらうものではないので、マニュアル通りという思考では答えが出てこないのである。
結局、エチゾラムという「麻薬に近い合法薬」に依存することで、人生の根幹に関わる部分をはぐらかしつつ、ただ生きている、ということになっている。
だが、似たような人がこの周辺には多数おり、これはもしかすると母親Mだけが特別にそうだというわけではないのではないか?と筆者は最近思うようになってきている。

手っ取り早いから・・・「麻痺させる」という解決策

依存性があることがはっきりしているエチゾラムを安易に出す医師というのも、この医師に限らず、日本社会では極めて多いと思われる。
現代医療は、原則が対処療法だ。
患者はいろいろと問題を抱えているわけだが、診療を通して、「なんらか目に見えた結果」を出すことを医師たちは常に要求されている。
実は、高齢者医療においては、患者は当座の症状が緩和されることのみを要求するケースが多いのではないだろうか?
つまり、根本的な原因について、考える人が極めて少ないということだ。
たとえば、脊椎間狭窄症のような症状が出ているとして、本来ならば筋力を強化するなり、食事を見直すなりの地道な対応をしていかなければならないはずなのだが、大半の高齢者の患者は、この痛みをすぐに手軽になんとかしてほしい、となる。
そうなると、ロキソニン湿布などを出して痛みを「麻痺」させてしまうのが一番手っ取り早いということになる。
そのほうが患者である高齢者も喜ぶ。

死生観がはっきりせず死への不安がある場合、対処療法としては精神安定剤で「麻痺させる」ということが解決策なのだろうか・・・

死生観がはっきりせず死への不安がある場合、対処療法としては精神安定剤で「麻痺させる」ということが解決策なのだろうか・・・

医師にしても、こういう患者の要求に応えようとすれば、原因を究明するよりも、とりあえずは対処療法として症状を緩和させればいい、ということになってしまう。
明らかな骨折だとか、傷口が化膿したとか、風邪や新型コロナウイルスに感染した、とかであれば、こうした「対処療法」はわかりやすいし、たとえば傷口に抗生物質とかつけるならば結果もすぐわかるし、必要な処置でもある。
しかし、日本における高齢者の多くが、もし、筆者の両親に近い状況、すなわち自分の生の意味というものがわからない生き方をしてきている人が多いのだとしたら?
生への不安、死に対する不安というようなものを自分で見つめたり、生に対して意味づけすることができないのだとしたら?
そして、毎日のように死の不安におびえて病院に駆け込んだりするとしたら?
つまり、その大きな原因が、自分の存在に対する根本不安のようなところから出ているとすれば、これに手っ取り早い対処療法を行うとしたら・・・それは「麻痺」させるしかなかろう。
腰の痛みにロキソニンを使って麻痺させるように、精神的な不安にはエチゾラム等の向精神薬でも使うしか処置の方法はない、というのもまた真実なのではないだろうか。

高度経済成長期以来の総決算ともいえる超・高齢化社会。その闇ともいえる人間の虚無感。まさにそこにこの問題の核心の一つはありそうに思われてならない。

高度経済成長期以来の総決算ともいえる超・高齢化社会。その闇ともいえる人間の虚無感。まさにそこにこの問題の核心の一つはありそうに思われてならない。

超・高齢化社会とは、こうした「存在の価値からの逃避」「生の意味からの逃避」といった大きな問題をはらんでいると筆者には思われてならない。
現実的な生と死の問題を自分自身で考える、という生物としての尊厳にかかわる部分をないがしろにしてきた高度経済成長期以来のつけが、結局はある種の麻薬的な処置による「麻痺」でしか解決がつかなくなっているのかもしれない。
だが、そういうことになってくると、これは社会そのものの内部に存在する、現代日本がずっと見て見ぬふりをしてきた闇の部分ともつながっていることになってくる。
教育のあり方にも原因はあるだろうが、産業構造や社会のあり方とも、超・高齢化社会というのは大いに関係していると思う。
複合的な問題なのだ。
次回以降、少し実家問題からこうしたことをいろいろと考えてみたい。